東北陶芸界の長老、現役の陶工でもある平清水焼青龍窯4代目の丹羽良知(昭和6年生まれ)さんにお話を伺った。飄々とした語り口ながら、「思い」(つまりはモチベーションだろう)が大事と言う言葉には、70年以上器と対峙してきた陶工でないと言えない真実があって、「ただ」作ることを良しとし無名の職人を称揚した柳宗悦の言葉が観念的に思えてきた。
ーいつ頃から陶芸をなさっておられるんですか?
戦後昭和21年、14歳の時、師範学校の予科を一年でやめ、平清水にやってきて、焼物に初めて触れたんだ。実家は天童で将棋駒をつくったけど、職人の世界にはそれまでまったく興味がなかったからね。入った当初は、当然、拭き掃除、薪割り、窯焚きなど雑用しかさせてもらえなかった。でも轆轤を引いて粘土からかたちができるのが見たくてね。二人の兄弟子が使い終わった夜にこっそりと使って覚えることを続けてた。ところが3年後に青龍窯の養子になったもんだから‥‥
ー職人を使う側になったわけですね。
はじめはえらい抵抗があったね。先輩の一人は喧嘩して出身地の東京に帰っちゃった。それでなくても陶工はなかなか続かないもんで。気力がある者はすぐ独立を考えるし、側から努力次第だからと嗾けられても逃げだしてしまう者もいるし。その時分から、青龍窯は、先代の当主が九谷の窯に修行に行ったりして、他の窯とはちょっと違ってた。また、仙台の藤崎デパートで鳴海要さんの個展を見て、そうかこういう道もあるんだと思ってね、仕事への熱の入れ方が変わったよ。納得できる作品を作る中で、先代から受け継いだ千歳山の陶石に含まれる鉄分を活かした平清水独自の梨青瓷を完成していく道を歩むことになったんだ。
ーどんなとこに苦労されましたか。
石の性質に合った安定した釉薬の状態にならなくて大変だった。毎回焚く窯の条件が違うし、完全に同じものはできないのが、焼物だからね。出たとこ勝負ってとこか。今でも、ずっと使ってきた千歳山の石の性質すら、十分につかみきれてないんだよ。われわれの時代はヤマカンの時代で、息子には「勉強してないものね」と言われるけど、これからの人は感覚と勉強と二つを大事にしたら、成功率上がると思うね。
ー作品を作るうえで大事なことは?
こういうものを作って見たい、っていう「思い」が大事なんじゃないの。以前瀬戸に行って何十年もお茶の茶碗を作っている陶工と会ったんだけど、ただ機械のように大量に同じものを作っているだけで、何の思いもない、って言っていた。別のものを作りたくないのかなあと思ったね。とくに若い時には世の中に「どうだ!」というものを作りたい、との思いが自分にはあったよ。「写し」は勧められたけど、やった記憶がないし、やる気持ちもなかったね。勉強にはなるだろうけど、そっくり作ろうとするより、その良さをどこで掴み取るかだと思うよ。
ー陶芸家といえば、できの悪いものを壊すイメージがありますが、自分の作品へのこだわりは?
みんなやってるんじゃないの。うまくないものはまず自分が見たくないもの。はてな、これはどうかという迷うものもあったら、これはちょっと置いておこうという風になる。結果、一年置いてダメだなと思うものがある一方、意外に良かったというものもある。
ー個展などにもよく行かれるとか。
案内が来れば大体8割方は行くようにしてるね。若い人の作品の中にもおやっと思うもの、ずっとうまいなあと思うものがある。未だに勉強してるよ。若い時分には立ち席で夜行列車に9時間、10時間乗ってたびたび上京し、博物館や画廊を回って歩いたなあ。焼物に限らずいろんなもの見るのが好きでね。最近は台湾に行って、「翠玉白菜」(翡翠から白菜を彫刻した台湾の至宝)も見てきたけど、思いの外小さかった。むしろパッと見てインドの影響の強い仏像に惹かれたね。日本のものでは古代の縄文のものなんかも好きなんだよ。
ー振り返って思われることは。
もう少し勉強しておけば良かったと。化学ばかりじゃなくてね。絵つけもしたいんだけど下手だから描けない。もっとも田村耕一さんは、日本画は特別やらなくても、嘘描かなきゃいいんだと言ってたけど。その点若い人は徒弟制度しかなかった時代と違って勉強できる環境に恵まれてるな。実際、我々と比べてもいろんな知識が持ててるなあと思うね。
ーこれから作りたいものは?
お茶碗をちょっと作って見たいと思って、今頭の中にある。地元の素材にはこれからもこだわりたいね。信楽のものを使っても活かしきれないし、そこには上手い人がいっぱいいる。おれの茶碗は、やはりここの素材でないとものにならないからね。
ーーお作りになられたらぜひ見せてください。
(以上、2015年のとうほく陶芸家展に際して伺ったお話を再録させていただいた。)