murakmi個人窯を宮城県に最初に築いた戦後東北陶芸のパイオニア、栗駒市金成町の村上与一さんの窯を訪ねた。お話を伺ったご自宅は、古民家を移築したものではなく、気仙大工の今や得難い技術を後世に残そうとの意図で、天然の栗の木を用いて建てられたもの。3階まで見事な木組みの吹き抜けが貫く豪壮な建物。村上さんが長い作家生活の中で掴んだ創作原理、黄金分割の考え方に基づいたオリジナル設計の建物だと言う。

ー陶芸家になられたきっかけは?

最初は絵描きになろうと思っていたんです。それが父に画家では飯を食えないと言われ、家を飛び出したんです。中学2年のときで、雪の散らつく2月の寒い日でしたね。駅のベンチに座って、ふと下を見ると草花があった。今はこんなでもいつかは花を持つだろうとの希望が芽生えた。私の原体験ですね。赤は生命の色、白は雪の東北の色として、器の絵にも今も反映されています。戦後間もなく物資不足の時代、小学6年のとき、家業の手伝いで一人で上京し、「日本民藝館」に備長炭を届けたことがあった。奥に柳宗悦の住居があったのを覚えています。それが焼き物に触れた最初の体験になりますか。東京にいたときには三宅一生のもとに行こうと思ったこともあるんですよ。気持ちが定まって、作陶修行のため会津本郷に赴いたのは22才のときで、初めの3年間は無給で働きました。

ー先生の焼き物は深く美しい色彩が特徴のひとつですね。

最初は藁灰を用いて「無」の色である白い器だけ出していて、村上の器は色がないと言われてたんです。そこで「アテルイ」の使う茶碗ならこういうものだという赤い茶碗を作った。そのときは「アテルイ」の像の写真を置いて轆轤を回したんです。河井寛治郎の出している生命感がある赤が東北でもできると信じて、美智子妃殿下(現皇后)が来仙の折出展したところ、たまたま妃殿下が赤い服をお召しであったことも関係したのか、ぼくのだけ7点選ばれた。色は言葉ですから、赤、黄、青と白い原稿用紙に言葉を連ねて行くように描いてきました。

ー陶芸で大切なことは?

東北の陶土の文献など誰も出していない中で陶芸を始め、地学からやろうと思って、地元の栗駒山から始まって青森まで土の分析に25年かけました。2年間バンクーバーのアートスクールで教師をした縁で、カナダやオーストラリア出身の外国人が多くいたこともありましたが、彼らにも他のお弟子さんと同じく土の大切さを教える意味で、土づくりから教えました。土も作れないようではほんとうのやきものはできない。土でも藁灰でも生活する場である地元の原料を使ってその特性にふさわしいやきものを創ろうと心がけて来ました。
手回し轆轤と蹴り轆轤を使って来ましたが,いいというかたちが分かるには技術が必要で、苦しいところを経なければなりません。
焼成はある意味、化学の世界。偶然に出来たでというのでは駄目。なんとなくそうなったというものでなく、これはこうだからと言い切れるものでないと、と思います。

ーどういう器がいい器と思われますか?

昔、出された器が欠けていたことがあった。それでもその器は美しいと感じた。そのとき以来、いいものは欠けていてもいいと思っています。
それから美の発見者は作者ではないということです。道具を上手に使って生活に取り入れた人が美の発見者なんだと。水差しを水差しとしてだけ使うのではない、そこに文化があるんだと思います。

ー使う人もそこで加われるんですね。

若い作家さんもそういういい人にめぐりあってほしいですね。