とうほく陶芸家展 in せんだい 第6回 2019 5/24~26  Tohoku Potters Exhibition in Sendai

新緑が輝く八幡の森に、江戸時代からの伝統と技術を受け継ぐ、あるいは自ら窯を開き作陶を続けてきた東北の陶工たちが集います。     Tohoku potters gather in the sparkling fresh verdure of Hachiman no Mori.

2018年05月

東北陶芸界の長老、現役の陶工でもある平清水焼青龍窯4代目の丹羽良知(昭和6年生まれ)さんにお話を伺った。飄々とした語り口ながら、「思い」(つまりはモチベーションだろう)が大事と言う言葉には、70年以上器と対峙してきた陶工でないと言えない真実があって、「ただ」作ることを良しとし無名の職人を称揚した柳宗悦の言葉が観念的に思えてきた。
ーいつ頃から陶芸をなさっておられるんですか?
戦後昭和21年、14歳の時、師範学校の予科を一年でやめ、平清水にやってきて、焼物に初めて触れたんだ。実家は天童で将棋駒をつくったけど、職人の世界にはそれまでまったく興味がなかったからね。入った当初は、当然、拭き掃除、薪割り、窯焚きなど雑用しかさせてもらえなかった。でも轆轤を引いて粘土からかたちができるのが見たくてね。二人の兄弟子が使い終わった夜にこっそりと使って覚えることを続けてた。ところが3年後に青龍窯の養子になったもんだから‥‥
ー職人を使う側になったわけですね。
はじめはえらい抵抗があったね。先輩の一人は喧嘩して出身地の東京に帰っちゃった。それでなくても陶工はなかなか続かないもんで。気力がある者はすぐ独立を考えるし、側から努力次第だからと嗾けられても逃げだしてしまう者もいるし。その時分から、青龍窯は、先代の当主が九谷の窯に修行に行ったりして、他の窯とはちょっと違ってた。また、仙台の藤崎デパートで鳴海要さんの個展を見て、そうかこういう道もあるんだと思ってね、仕事への熱の入れ方が変わったよ。納得できる作品を作る中で、先代から受け継いだ千歳山の陶石に含まれる鉄分を活かした平清水独自の梨青瓷を完成していく道を歩むことになったんだ。
ーどんなとこに苦労されましたか。
石の性質に合った安定した釉薬の状態にならなくて大変だった。毎回焚く窯の条件が違うし、完全に同じものはできないのが、焼物だからね。出たとこ勝負ってとこか。今でも、ずっと使ってきた千歳山の石の性質すら、十分につかみきれてないんだよ。われわれの時代はヤマカンの時代で、息子には「勉強してないものね」と言われるけど、これからの人は感覚と勉強と二つを大事にしたら、成功率上がると思うね。
ー作品を作るうえで大事なことは?
こういうものを作って見たい、っていう「思い」が大事なんじゃないの。以前瀬戸に行って何十年もお茶の茶碗を作っている陶工と会ったんだけど、ただ機械のように大量に同じものを作っているだけで、何の思いもない、って言っていた。別のものを作りたくないのかなあと思ったね。とくに若い時には世の中に「どうだ!」というものを作りたい、との思いが自分にはあったよ。「写し」は勧められたけど、やった記憶がないし、やる気持ちもなかったね。勉強にはなるだろうけど、そっくり作ろうとするより、その良さをどこで掴み取るかだと思うよ。
ー陶芸家といえば、できの悪いものを壊すイメージがありますが、自分の作品へのこだわりは?
みんなやってるんじゃないの。うまくないものはまず自分が見たくないもの。はてな、これはどうかという迷うものもあったら、これはちょっと置いておこうという風になる。結果、一年置いてダメだなと思うものがある一方、意外に良かったというものもある。
ー個展などにもよく行かれるとか。
案内が来れば大体8割方は行くようにしてるね。若い人の作品の中にもおやっと思うもの、ずっとうまいなあと思うものがある。未だに勉強してるよ。若い時分には立ち席で夜行列車に9時間、10時間乗ってたびたび上京し、博物館や画廊を回って歩いたなあ。焼物に限らずいろんなもの見るのが好きでね。最近は台湾に行って、「翠玉白菜」(翡翠から白菜を彫刻した台湾の至宝)も見てきたけど、思いの外小さかった。むしろパッと見てインドの影響の強い仏像に惹かれたね。日本のものでは古代の縄文のものなんかも好きなんだよ。
ー振り返って思われることは。
もう少し勉強しておけば良かったと。化学ばかりじゃなくてね。絵つけもしたいんだけど下手だから描けない。もっとも田村耕一さんは、日本画は特別やらなくても、嘘描かなきゃいいんだと言ってたけど。その点若い人は徒弟制度しかなかった時代と違って勉強できる環境に恵まれてるな。実際、我々と比べてもいろんな知識が持ててるなあと思うね。
ーこれから作りたいものは?
お茶碗をちょっと作って見たいと思って、今頭の中にある。地元の素材にはこれからもこだわりたいね。信楽のものを使っても活かしきれないし、そこには上手い人がいっぱいいる。おれの茶碗は、やはりここの素材でないとものにならないからね。
ーーお作りになられたらぜひ見せてください。
(以上、2015年のとうほく陶芸家展に際して伺ったお話を再録させていただいた。) 

 

栗原市周辺には、戦後東北の個人窯の興隆を先導した村上世一氏(大久保窯)と、かってその指導を仰いだ陶芸家たちがあちこちに窯を構えている。遊佐さんもそうした陶芸家の一人で、東北学院大を卒業後、村上世一氏のもとで修業を積んで、1994年彼の生家である現在の地に窯を開いた。
遊佐さんの窯は国道4号線を北に向かって走り、一迫川を越えたところから左側に入った、留場と呼ばれる古くからの集落の中にある。江戸中期にこの地に移ってきた17代続く農家で、立派な門構えと氏神の社が残っていて、遊佐さんが工房兼展示場としている建物も太い柱の堂々とした古民家であった。
作陶を続けているのは、大雑把なジャンル分けでは村上世一氏も属する民芸風の器に入るのだろうが、伝統的な海鼠釉を中心にしながらも、カラフルな釉掛けはもちろん、刷毛目の大胆な扱いや面取りやしのぎなどかたちの処理に若々しさが感じられる器である。そこには村上氏とは違った自分なりの特徴を出していこうとの意志が感じとれる。大皿や壺など大きな作品にも精力的に取り組んでいるが、ことさら芸術作品を意識することなく、日常生活で気軽に使える器を謙虚に作っていきたいとの気持を持ち続けている。
窯は1立方メートルの容量があるレンガ造りの灯油窯で、大きな壷はもちろん、湯呑茶碗 なら600個ぐらいは焼ける。
年2回窯併設の展示場で工房展を毎年開催しているほか、東京や仙台など遠隔地のギャラリーでの個展も毎年のように開いている。そのために2ヶ月に1回の割合で焚いてるというから精力的な仕事ぶりだ。気力、体力、技術力が充実し、方向性も確かなものになる50代の進展が楽しみな作家の一人である。






加藤さんの工房は、仙台市郊外愛子の丘陵に開けた住宅団地の一角にある。丘の上の街へと向かう長い坂を車で登っていく途中、巨大な仏像が市街を眺め渡すように鎮座していた。日が沈みかける中、大きな黒い影が迫ってくるような不気味な気配を感じつつその脇を急いで走り抜けると、間もなく加藤さんの窯でもありご自宅でもある住宅団地に着いた。
加藤さんが陶芸の道に入ったきっかけは、お父さんの仕事との関わりが大きい。加藤さんのお父さんは、仙台駅前の「丸光デパート」の外商から脱サラして、向かい側にあった「仙台ホテル」の地下で主に京都の窯元からの直扱いの器を売るお店を開いていた。(両方とも仙台を代表する老舗のデパートとホテルであったが今や存在しないことにいささかの感慨を覚える。)折しもバブルの時代だったから、そこでは高級割烹に出すような高いクオリティーとそれに見合った値段がつけられた食器がよく売れた。この父の仕事場によく出入りしていたから、そうした器は自然に親しいものとなり、やがて陶芸の道を選ばせ、彼の後年の作風を生み出す原体験ともなっていったのだろう。仙台の向山高校を卒業して、京都の職業訓練校へと進み、陶芸の基礎訓練を受けた後は、土ものの器を作っていた京焼の窯「嘉豊陶苑」へ陶工として勤めた。11年間に及ぶ修行時代が終わり仙台に戻り現在の地に窯を構えたのは2003年のことだった。
加藤さんと言えば、今や結晶釉の作品で有名だが、最初は薄手の焼締の器を焼いていた。結晶釉の作品は、10年前に「さくら野」デパート(丸光の二代後)で個展を開いたときが最初のお披露目であった。東北らしい新しい器をとの思いが、堤焼の海鼠釉に新しい雰囲気を付け加えた結晶釉へと導き、確かな技術に加えて彼の繊細な感覚を花開かせるところとなった。窯の炎が釉薬と反応して作り出す情景が思い思いの自由な想像力を刺戟する楽しさもある。地元らしさといえば、宮城県の雄勝硯の粉を用いて青磁っぽい感じを出していることも付け加えておこう。
現在はお茶の器や酒の器に主な需要があるが、コンクール展にも積極的に応募し、2012年には 河北工芸展で宮城県知事賞を受賞している。ちょうど伺ったときにも、良く整えられた工房の片隅には現代工芸展へ出品するためのつくりかけの作品がひっそりと置かれていた。




 

「祖父からの隔世遺伝なんでしょうかね」と鈴木さんは笑って言う。祖父鈴木清氏は作並系の伝統を受け継ぐこけし職人で、今は秋保にあるこけし工房&ショップ玩愚庵の創立者であった。しかし、こけしづくりに収まりきれない幅広い趣味人で、益子から泉の別荘に窯職人を呼んで窯を作らせ、仙台圏で最初の陶芸教室を開いた。試行錯誤して白い器を作ったら、平清水焼の「残雪釉」と似てるね、と言われたこともある。それぐらい趣味の域を超えた質の高いものを作っていた。
玩愚庵は、父昭二氏、そして弟の明氏が受け継いだが、次男坊の智さんはお祖父さんが趣味から始めた陶芸家の血を受け継ぐこととなった。山形県高畠の本家が益子の窯元と縁があったことから、益子の窯業指導所に入り修行時代を過ごした。ひたすら轆轤を廻す日々であったという。陶芸家の一人が彼の轆轤回しはすごいよ、と言っていたので今度伺うときには轆轤の技をぜひ拝見できればと思っている。
鈴木さんの最初の窯は、村田の町に近い山中に設けた。後から越してきた陶芸家黒本雅志さんの窯場のちょうど裏手にあたる。現在は遠刈田温泉の中心部からしばらく走った、蔵王権現の入り口、大鳥居の近くの自然林の中に窯と工房を開いている。電気窯と石油窯を用いて、灰釉、黄瀬戸、白磁、瑠璃釉といろいろ試みる中で、人気があったうえに、自分の好みであった織部焼きの副産物である辰砂釉を十八番としている。
色に人一倍関心を持っている鈴木さんは、一般的な木灰だけでなく、林檎、ケヤキ、桜、楢なども灰化して多様な色彩の器を作っている。それら器の抽象表現主義のドロッピングを思わせる表面彩色とスピード感のある轆轤目のタッチを見ていると、プロはだしのブルースギタリストでもある鈴木さんのエモーショナルな音楽的資質とのつながりを考えたくなる。使える器を成り立たせている伝統の技法を理解、修得するだけに終わらず、お世話になってる工芸画廊のオーナーの「新しいものに挑戦して初めて伝統が守れるから勇気をだして仕事をしないと」という言葉を、智さん自身の座右の銘として胸の内に響かせ日夜制作に励んでいる。
最後になったが、奥様の絵付けはロシアや北欧の民俗的なものと日本のこけしの絵付けが融合したような面白さと、ぱっと見で心を惹きつける無邪気な可愛らしさがある。今回は、アクセサリーと「蔵王の森シリーズ」の器を出展する。

元窯3

瑠璃釉の鉢を手に

 






 

阿武隈川沿いに広がる角田市の郊外には、低山に囲まれた典型的な豊かな里山の景観が続く。池田さんの窯は、この山間の集落の奥にある。
今回陶芸の道に入ったきっかけを初めて伺ったのだが、インドに渡りしばらく暮らしたということが大きいようである。そこで豊かな自然に同化するように暮らす人々の姿を見て、自分も自然とともに生きるような仕事ができればとの思いがつのって、それが土に触れる陶芸に結びつき、美濃の作家梅原偉央氏に師事することとなった
大震災前までは池田さんの窯は、えみし窯と称し、東北では珍しい蛇窯で、東南アジアからの古くからの渡来ものにつながる南蛮焼締を焼いていた。ざくっとした素朴な形の柔らかい土味がなんとも魅力的な器であった。彼は琵琶湖周辺の羨ましいぐらいいい土を使っているんだよ、と教えてくれた陶芸家がいた。しかし、震災後は原発の影響を人一倍憂慮し、近隣の薪を使う蛇窯は早々に人手に渡し、今はガスの窯で焼いている。この辺の判断の経緯についてはこれ以上詳らかに語るのは控えておきたいが、熱い思いを持って歩んできた道を理不尽な要因でねじ曲げられたようで、側からは想像できないつらい決断だったのだと思う。
今、池田さんは花生といった美術品にもなりうるジャンルではなく、主に手頃な値段で求められる食生活に関わる器を作っている。受賞歴もある池田さんだが、その現在の立ち位置から、自分は陶芸家というより陶工なんですよとおっしゃる。しかし、彼の器は何の思いもなく機械的に焼かれたものとは明らかに違う。私も僅かながら粉引のカップを購入して使っているが、掌にやなじむマットな表面と柔らかいかたちに、ご本人の律儀でやさしい性格がにじみ出ているようで、安心して使え続けられる器になっている。シンプルだがこのかたちのバランスは一朝一夕では生まれてこない。
帰り際に民芸品のジャンルに入るのだろうか、フランス製のアンティーク皿を見せられた。食材がすんなり収まる絶妙な傾斜とまわりの八角形のかたちがやわらかな魅力的な器であった。若い人に洋食器のスタイルが流行っていることへの彼なりの回答が、ここから生まれてくるのを楽しみにしている。震災後始めた奥様の絵付けにも控えめななかにいい持ち味が出てきていると思う。

18池田氏顔

老師然とした風貌となった池田さん

18池田奥さん

奥様はもくもくと仕事

18池田仏皿

こんな皿があったら、欲しくなるーフランスの年代物の皿(モントロー窯?)

18池田展示

展示室、床から壁まですべて池田さんの手づくり、すごい!







 

↑このページのトップヘ