とうほく陶芸家展 in せんだい 第6回 2019 5/24~26  Tohoku Potters Exhibition in Sendai

新緑が輝く八幡の森に、江戸時代からの伝統と技術を受け継ぐ、あるいは自ら窯を開き作陶を続けてきた東北の陶工たちが集います。     Tohoku potters gather in the sparkling fresh verdure of Hachiman no Mori.

青根温泉に向かう途中、人家のまったくないまっすぐな道沿いに鶯林窯はあった。この名前が示す通り、春になると鶯が鳴くような自然豊かな山間の地である。ついついスピードを出してしまいそうなところなうえに、看板の文字も薄れかかっているので、うっかりすると見過ごしてしまうので注意が必要だ。
龍知さんは、平清水焼窯元、青龍窯4代丹羽良知さんの次男坊として生まれ、幼いときから窯場で働く父親や陶工の仕事を見て育った。日大芸術学部を卒業した後、自然と轆轤を回し、窯場の手伝いをするようになる。やがて窯場は兄が継いで、自分は平成8年県境の山を越えて、この川崎の地に移ってきた。
東北の地で約束事の多い本格的な抹茶碗を作れる作家は少ない。父の良知さんはそれが出来る数少ない作家の一人だ。陶芸に対する「思い」は、人一倍で若い作家の作品展でも精力的に見て歩く。昭和六年生まれの87歳となった現在も現役で、小さいもの、抹茶茶碗を作っている。名品と思われるこれまでの作品を見ると特別繊細な感覚をお持ちなのがわかる。
この「思い」と「繊細な感覚」は龍知さんにも確実に受け継がれているものだろう。微妙なかたちの美しさといい、釉掛けの繊細な趣といい、オリジナルに挑戦する意欲といい、良知さんのDNAを受け継いで深い味わいが出せる作家として、これからの成長が楽しみな一人である。
作品としては青磁、天目、織部釉の主に三種を手がけてきた。訪れたときには裏の山から採ったという土に信楽の白い土を混ぜてつくっているという、試行錯誤中の抹茶碗を見せてくれた。50度くらい下げて焼いたら前はテカテカだったものが、マットないい感じになったと嬉しそうに見せてくれた。白泥が美しい茶碗だったが、今度の展示会ではこの発展形が見られるのだろうか。楽しみだ。

18鶯林窯ブログ

展示ギャラリー

丹羽龍知ブログ

平清水の名品「残雪」とのつながりも感ぜられる新作茶碗を見せながら









柴田町の中心から程遠くない山林をうねる農道を車を駆って、それら丘陵の谷筋にある黒本氏の窯に赴く。これで何度目だろう。大震災後、個人窯では宮城県最大と言われた巨大な穴窯が倒壊した跡を見に行ったのが最初だっただろうか。もう7年前のことで随分昔の話になってしまった。黒本さんは最初は小さな窯でかろうじて窯炊を継続し、3分の1と随分小ぶりになったが1年あまりで見事に現在の窯をたちあげた。しかし、やっかいなことはそれだけではなかった。それまでは近隣で採取していた粘土と赤松が、震災の副産物の原発事故による放射能汚染で使えなくなったのだ。震災直後に行った時には赤松は、輸送費が高上がりになるのを承知で秋田から取り寄せてるというようなことを聞いた覚えがあった。
現在、土は半分以上は、東北在住の外国人陶芸家の先駆者ブルーノ・ピープルさんが在住する山形の大石田から取り寄せている。赤松の仕入先は、丸森の会社(震災前までは蒔窯を使う宮城の多くの陶芸家がここから取り寄せていたが、震災後倒産した)から七ヶ宿の会社に変えた。この会社は前の会社と違って陶芸家用の蒔を専売しているのではないので、供給された原木の半分が腐っていて、風呂やストーブ用にしかならなかったときもあった。こうした質の悪い蒔だと温度も上がりにくい。
黒本氏は、若いころ地元の工業高校を出て備前焼の作家の元で修行したということもあって、本格備前風の作品を東北でつくる数少ない作家だ。作風には真面目で堅実な性格が表れて、いずれも狂いのないかたちといい、しっかりと焼き締まったつくりといい、安心して使えるものとなっている。備前焼は、金重陶陽の備前復興以前は、手の込んだ飾り物の伝統もあった。彼の器には日用の器以外にも香炉などそうした古風な伝統を思わせる作品がある。このことと多少は関係があるだろうか。彼の曽祖父は旧制金沢高校の漢学の教授であった。見事な髭を蓄えた老学者の写真が彼の工房に掲げられていた記憶がある。
60歳以上の陶芸家が多い中で彼は若手の部類に入る。震災後、良き伴侶を得たが、静かな情熱を秘めた彼が作家として成熟を遂げるのをこれからも楽しみに見ていたい。

18黒本1

カメラを忘れていったためスマホで急場をしのいだ。不鮮明な写真でご容赦。

2018黒本3

2018黒本2

ちょうど窯炊に入ったばかり。まだ火はちろちろの段階。火力の調整に余念がない。

雅堂窯

 
窯の様子など鮮明な写真は黒本氏のブログをごらんください。
http://blog.gadogama.net























































オペさんの窯の名「雷窯」は、近くにある神社の来歴と関係がある。折石(さくせき)神社というのがその名だが、大樹に囲まれたこんもりとした丘陵があって、お狐さんの石像を両脇に配した鳥居と社に通じる石段が設けられているのが県道からも見える。オペさんの話だが、社には雷に打たれて割れた大石がご神体として祀られているという。幻妖な趣きの大きなお狐さんといい、鈍感な私にも強い霊気が感じられる。勝手な想像だが、古代ケルトの石の文化と近似するものを感じて、オペさんはこのパワースポットを選んだのだろうか?それについては今度会うときに聞いてみることにしよう。
オペさんの窯はこの神社と県道を挟んで向かい側の丘を分け入ったところにある。以前来訪したときの記憶をたどって走ったが、結局行き着けず、折石神社の前まで迎えに来てもらった。彼の工房は立木に埋もれるように建っていた。古代然とした環境と山里の隠れ家のようなこの小さな家で、英国ポップな作品が作られているとは誰も思うまい。
オペブランドは、カラフルなレインボーカラーの釉がけで知られる。雷雨のあとにかかる虹は、工房の場所とも結びつく。オペさんの器には、雨雲が去り光が差して虹がかかるときの晴れやかさが感じられる。しかし、よくある衣裳に走って使いにくい器ではない。とりわけ紅茶茶碗には、英国と日本の用の器の伝統が絶妙に融合されていて、我が家では常用品となっている。
ロンドンの中心部から少しはずれた静かな住宅街に生まれ、大学をドロップアウトして、アルバイトでためた資金を元に世界に飛び出した。様々な仕事をしながら、米国を縦断し、ハワイ、フィリピンを経て、少年時代の焼物修行で中国系の先生から教えられた焼物の本場、日本に行き着いた。それから相馬焼に弟子入りするまでの詳しい経緯は、最近出た雑誌「りらく」を見て欲しい。オペさんにとって極東日本は、思うがまま轆轤を引くための「虹の端」だったのだ。
オペさんはコンクールにも意欲的に挑戦し賞をとっている。訪れたときも4月の半ばから始まる日本現代美術工芸展 に出品するという作品が置いてあった。口を半ば開いた貝のような形状の作品は、外に雲がたなびき、内側にはやはりあのレインボーが描かれていた。
帰り際、鴨居の上にデビット・ボウイのな70年代の傑作「アラジン・セイン」のアルバム表紙が飾られているのが目に入った。虹色のブラシを顔に施したボウイの写真とオペさんとのつながりについても、今度の展示会で聞いて見ることにしよう。

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柴田町葉坂、折石神社












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ライトを照らすと虹の上に光の斑紋が映り込んで幻想的な趣となる。 








折石神社については以下に詳しい。
https://blog.goo.ne.jp/inehapo/e/a15755737e4ad77daf01349d7be361bf 

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